くせっけデザインのブログ

くせっけの人に幸あれ。

公務員を辞めて無職になった話。

最近ふと思い出したエピソードがある。

小学校2年生の授業参観の日、普段とは違った状況に僕は高揚していた。保護者が見守る異質な環境の中、僕はシンプルに「お客さんを楽しませよう」という気持ちで一人で騒ぎ立てていた。さながらエンターテイナーのような気分だった。

 

しかし、当然のごとく周囲には困惑され怒られた。当時はなぜ怒られたのか理解できず、自分と他者の認識のギャップに窮屈な想いをした。

 

 

先日、12年間勤めた市役所を退職した。これ以上なく幸せな社会人生活だった。はじめに書いたような変わり者の要素は社会に揉まれながらも根本は変わることなく僕の中に残り続けた。それでも変わり者が活躍できる場所がどんなところにもあって、気に入ってくれる人もどんな場所にでもいることを体感した。

 

僕が直近の約8年間に担当した仕事は、ざっくりまとめると「まちづくり」というジャンルだ。人と出会い、話し、共感し、意気投合し、そうして生まれるエネルギーで街に笑顔を生むような企画を実行する。公務員が一般的にイメージされるようなお堅い仕事ではない分野だ。変わり者は市役所内外で出会った方々に育ててもらいながら大きくなった。僕の中でいつしか仕事は、ワクワクすればするほど良いものになるものという認識になっていった。同じ体験を若い世代の職員にも味わってもらいたくて、様々なプロジェクトを打ち立てたりもした。

 

一方で、市役所の仕事の基本は「守り」だ。人間らしさや感動よりも淡々と仕事を進めることを求められるケースはいくらでもある。むしろ99%がそういった仕事だ。僕は残り1%のポジションに、ちょうどフィットする居場所にたまたま居続けることができ、更に幸運にも可愛がってくれるメンバーに囲まれた。

 

市役所に限らずこの社会には心からワクワク働いている人が多いとは言えないことは知っているし、辛い仕事をしている方にとっては「なんてわがままな理由なんだ」と思われることもわかっている。その上で、はじめに書いたような変わり者(一般的な人と比較して自分を曲げることが苦痛になる人間)も存在するという事実は、多様性が叫ばれる現代、もっと認識されてもいいかなとは思った。

 

いつだったか、尊敬する方が話してくれた「みんな金平糖だから補い合える社会なんだ」という言葉が大好きだ。ビンに入った金平糖の形のように、人はそれぞれ強みと弱みがあってデコボコしている。それでも自分の弱みに誰かの強みがフィットするからビンの中の隙間が生まれにくい。みんな個性があって、補い合えるという意味だ。その関係性が美しいと僕も思う。

 

これがみんなビー玉だったらどうだろう。一見、誰しも同じ大きさで均整が取れている。ただ、ビー玉同士の隙間は空いたまま。スカスカである。現代社会はビー玉でいることを求められることが多いと思う。僕はお堅い仕事が苦手だ。でも変わり者だって使いようによっては社会の武器になる。そんな自信も少し芽生えてきた。

 

ここ半年は自分の世界を広げたくて、いろんな方の話を聞いた。中には僕と似たような性格特性の人が組織を飛び出して自分らしく働いている姿を見ることもできて、良い心の薬になった。その人たちの行動は側から見れば安定を捨てたように見える動きかもしれないが、自身の精神の安定を求めた結果の行動であり、選択は間違ってなかったと笑顔で話す。進む道が照らされた気がした。

 

もちろんスパッと踏ん切りが付いた訳ではなく、一人で悩んだり妻が背中を押してくれたりといったプロセスも経てのことだが、最終的には次の仕事が決まっていないにも関わらず辞めるという決断をした。そして現時点では不安以上に、どんな未来が待っているのかワクワクしている。

 

いろいろ端折ったりしたが何が言いたいかというと、(滅多にいないと思うが)僕のような性格で社会と自分の立ち位置に苦しんでいる方がいたとしたら、その方の選択肢を増やしてあげられるような動き方を今後していきたいということ。「人の心配をしている場合か!」と言われる可能性も大いにあるが、やれるだけ頑張ってみたいと思っている。

 

取り留めのない話になったが、利益によらないところで心から街や住民の方のために働くことのできた経験は何にも変え難い、かけがえのないものとなった。

 

これまで関わってくれた全ての方に感謝します。